ぼくの木星

木星でくらい、自由に書いてもいいじゃないか。

「STEIN;S GATE 0」と、小話② ―理系アニメというものが、かつてあったのだろうか?―

 ストーリーについてはあまり話さない、というよりも話すことができない。僕はアニメに関して、気に入ったものを最初から何度も見直す口ではない。気に入ったシーン、大体後半2,3話を思いついたように見る。つまり全体の内容はうろ覚えであることが多いので、語るに語れない。

 

 ジャンルとしてはSFなのだろうか。他にSFアニメといえば、「攻殻機動隊シリーズ」くらいしか思いつくものがない。それくらいSFモノには疎い。小説でも最近になって「屍者の帝国」(伊藤計劃円城塔)を読んだくらい。ランキングサイトには、「とあるシリーズ」「PSYCO-PASS」、「翠星のガルガンディア」まであった。だいぶライトなものも含むようだ。

 小説「凍りのくじら」(辻村深月)で「S(すこし)F(ふしぎ」という描写があったが、アニメ上のジャンル定義としてはどうやらそれに近い気がする。科学用語は出てくる、テクノロジーを用いた未来的な発明品や現象がメインストーリーのカギとはなるものの、「サイエンス・フィクション」というほど科学科学していないのだ。

 

 そこで思い起こすのが、森博嗣先生の「つぶやきシリーズ」のとあるコンテンツである。どの巻のどのコンテンツだったかは忘れた。「理系はとある現象を説明するときに、それを一言で表す固有名詞は使わずに、理論でもって述べる。一方で文系がそれを説明するときには固有名詞一言で表す。だから理系学者の方々はその固有名詞を出されてもピンと来ないことだってある」といった内容だったと記憶している。

 ここから考えると、視聴本数が少ないながらも「SFアニメは文系の作った理系アニメなんだろうな」と予想してしまう。理論に理論を重ねた物語は、感情メインのストーリーを期待している多くの視聴者層にはウケないだろう。バトルアクションと違って、自然現象、化学現象はアニメーションには向かない(視覚的な感動でいえば、実写の方がそのままの情報として脳に入り、ありのままの刺激として感動を生む)。

 制作側も、アニメーターならば理系教育の道を歩んできた方がその強みを生かせる舞台になり得るかもしれない。脚本の分野ではどうか。こちらは若いころから物語としての創作物が好きだった人が多いだろう。こと小説が文系の娯楽といわれるくらいなので、理系要素は薄そうである。「小学生から小説が好きで、月に数十冊は読んでいました。大学での専攻はロボット工学です」なんていうアニメ脚本志望者がいたら、きっと面白い。

 

 そんなわけで、理系アニメといわれる大半は「”文系による”理系アニメ」であり、しかしだからこそ僕のような層が楽しめるし、アニメーションビジネスとしても成り立っているのだろう。

 「STEIN;S GATE 0」はきっとその類で、登場人物の感情が溢れに溢れるストーリー大好きな僕は大いに楽しんだ。見た人はご存知の通りだが、21話で鳳凰院凶真が甦ったのだと悟らせた岡部の、そう悟ったまゆりの表情。そしていわずもがな、最終話Cパートの演出に視界を歪ませた視聴者の一人である。「Gate OF STEINER」「ファティマ」「アマデウス」はもちろんポッドに加えられた。昨年春から少し気落ちしていた僕は、おかげでちょっとだけ人生に潤いが戻ったような気がする。

 

 「理系の脚本が本気で作ったアニメ」というのがいつかできたら(あるいは既にあるのならば)、是非見てみたいものである。ただし2時間完結ものとかにしないと最後まで辿り着かない可能性もあるが。

27歳にして考える「恋愛と性」―「14歳からの哲学」(池田晶子)について―

 「14歳からの哲学」という書があって、これをつい先日まで読んでいた。
ブックオフに平積みされているところを目にとめ、手に取り、レジへ行き。
 向かいに立つ女の子は、そんなタイトルを目にし、そしてそれを読む僕を見て、何を感じただろうか。多分僕を見てすらいない、が正解だ。
 
 14歳の僕が読んでいたら、最後まで読んでいない。17歳でもそうだし、20歳なら、辛うじて最後まで読めたかもしれない。
 難しいわけではなく、その当時の僕にとって興味深かったかどうかであって、27歳の僕が他の僕に比べて一番惹かれたはずだと確信している。
 大学でもっと勉強しておけば良かったなぁ、という最近とみに湧く思いとはまた別である。著者の池田晶子さんについては、まったく知らない。著者自身の目につくことは0に近いはずだが、もしそうなってしまったら、失礼なことを書いていたら申し訳ございません。
 
 さて、この書は一貫として「自分で考えなさい」ということを伝えてくる。耳が痛い。
 「社会」とか「自由」、「死をどう考えるか」(これが「14歳から」「17歳から」の2章立てのうち、前者に含まれる。僕の周りに死について考えていた14歳はいるようには見えなかったが)等、根源的な概念を取り扱う如何にも哲学らしきラインナップである。
 
 「恋愛と性」。14歳の章に位置づけられているのは、性の芽生えが大体この辺りの年齢だろう、ということではないと思う。
 性を意識するのは小学校中~高学年くらいが多数だろう。
 僕が「自慰」を知ったのも、確か3、4年生の頃。しかも芽生えは恥ずかしながら、まだ家族3人一緒に寝ていた夜だったと記憶している。
 意図的に親に隠れて自慰行為に更けるようになったのが、小5くらい。
 実家のパソコンを友達に貸し、検索欄の履歴を見られて大恥をかいたのが、確か中1のころ。
 女性も程度の差はあれ、自覚が芽生えるのはこのくらいなのでは。
 
 性欲との出会い、その全てが偶然とはいえ、それが14歳というのは、僕らの世代からしたらきっと遅い。この書は初版が2003年、僕が14歳になったのは計算が間違っていなければ2005年。ほぼ同世代に向けた一冊だ。
 
 ではなぜ14歳からなのだろう。僕の解釈は、「恋愛と性欲がリンクし始めるのが、その年頃だから」である。有り体に言えば、「好きな人とセックスしたい」と思い始める年頃といったところか。僕自身、学生時代はそれはそれは純な考えの持ち主(自分で言っていて恥ずかしい)だったので、はっきりと「好きな人とのセックス」を想像し始めたのは、20歳くらいじゃないだろうか。自慰を覚えるのは早かったが、恋愛にセックスを持ち込むのは遅かった。
 
 この「恋愛と性」をわざわざ取り上げたワケ。それは著者曰く、
「食文化における料理にあたるものが、性文化における恋愛である」(池田,2003)
というこの考えに、今まで思い至らなかったからだ。
 そしてその章の最後にはこう書かれている。
 
「自分を愛せる人でなければ、他人を愛することはできないのだったね。恋愛も同じだ。いや、動物としてのセックスがあるぶんだけ、恋愛こそが試されることだ。」(池田,2003,110p)
 
 好きな人が性欲の対象になる、そんなまだ生まれて十数年しかたたない男女に、この言葉が突き付けられたら、彼ら彼女らは一体それをどう捉えるのだろう。
 20代後半になったって、「セックスしたいから彼氏彼女をつくる」という人も少なからずいる。そんな人の衝動を僕は否定できない。性欲と切り離した恋愛を「高尚なもの」だとも思わない。しかし「セックスしたいから付き合おう」というのは、それに同意する人は少ないように思える。
 
 性衝動が先か、恋愛感情が先か。
 そもそも恋愛感情とは何に起因するのか。
 
 性欲と見た目、恋愛感情と中身は、それぞれ強く結びついている。個人的にこの考えは割合的を得ている。だから、アイドルのような見た目の選ぶ男性は体目的なのだ、と言われがちなのであろう。性欲と、五感それぞれの神経に占める割合は、相関している気がする。
 
 しかし「見た目」というものは、それを感じている当人の主観でしかない(「あの子、芸能人の誰それに似てるよね」と周りに言って、いつも同意を得ることが少ない僕にとって、この「見た目≠客観」論は自明である。)
中身も然り。「やさしそうなあの子」は、友人にとっての悪魔であることは、ままある。
 
 結局、どんな相手を選ぼうが、それは絶対評価である。「面食い」が高じて選ばれた、と言われたって、相対評価ではなく主観による絶対評価だ。「顔だけで選んだからすぐ別れた、内面も気にすべきだ」と言われたからといって、当人にとって彼氏彼女を選んだその時点では、その選択を貶められる謂れは何もない。
 そして恋愛感情が主観によるものである限り、その要因が見た目だろうが中身だろうが、些末なことである。「見た目ありき」だろうが「中身ありき」だろうが、恋愛は当人間で行われているものだ。合意さえあればその恋愛は実を結び、それが無ければ誰かが泣く、それ以上のものではない。
 
 性という多数の生物に共通するものの中で、人間が独自に発展させた「恋愛」。つまり、恋愛はヒト文化のひとつであるとのことだ。
 「江戸の文化」「中国の文化」といった文脈でしかほぼ使わないので、「恋愛=文化」という思惟は、かなり新鮮であった。
 そして主観が統べる恋愛だからこそ、その概念は永遠に宙ぶらりんのままである。

「STEIN;S GATE 0」と、小話

アニメは好きである。本数はそれほど見ない。

 

今年でいえば、

ポプテピピック

「邪神ちゃんドロップキック」

これらはなんjの影響で。

 

新世紀エヴァンゲリオン

を劇場版まで。

これは何というか、まあ、ショッキングな現実から逃れるため、とでもいうか。

そういう目的に相応しいアニメーションかは別として。

 

未来のミライ

ペンギン・ハイウェイ

この二つを劇場で見ている。

 

ここまでで映画を含め5作。

「アニメが好きだ」と聞いて一般的に想定する視聴本数がいくつかは知らないが、

確実にそれに比べれば少ないのではないか。

 

そして最近になって見たのが、タイトルにある、

 

「STEIN;S GATE 0」

 

前作「STEIN;S GATE」を見たのが5年前、

丁度バックパックを背負ってトルコからドイツまで

ふらふらしていた頃である。

当時は就活ストレスの反動から深夜アニメに嵌っていた、

一日に4,5時間は非現実に浸っていた最たる時期。

そんな中でもこのSFアニメは群を抜き、

以降今に至るまで、僕の中のアニメ二大巨塔の一つだった。

(ちなみにもう一作は「物語シリーズ」)

 

それから大学を卒業、社会人としてホテルで働き始め、

大人の面倒臭さやら甘さを知り、

周りが結婚し、あるいは知らないどこかで友人を亡くし、

他人をこの26年で最も愛し、別れ、慢性的に病み、

人並みに浮き沈みのある4年半を送った。

 

沈み続けていた今年の秋口に、

撮りためたまま忘れていた「STEIN;S GATE 0」を、

やることもなくなった連休を使って一気に見た。

 

続く(多分)