ぼくの木星

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27歳にして考える「恋愛と性」―「14歳からの哲学」(池田晶子)について―

 「14歳からの哲学」という書があって、これをつい先日まで読んでいた。
ブックオフに平積みされているところを目にとめ、手に取り、レジへ行き。
 向かいに立つ女の子は、そんなタイトルを目にし、そしてそれを読む僕を見て、何を感じただろうか。多分僕を見てすらいない、が正解だ。
 
 14歳の僕が読んでいたら、最後まで読んでいない。17歳でもそうだし、20歳なら、辛うじて最後まで読めたかもしれない。
 難しいわけではなく、その当時の僕にとって興味深かったかどうかであって、27歳の僕が他の僕に比べて一番惹かれたはずだと確信している。
 大学でもっと勉強しておけば良かったなぁ、という最近とみに湧く思いとはまた別である。著者の池田晶子さんについては、まったく知らない。著者自身の目につくことは0に近いはずだが、もしそうなってしまったら、失礼なことを書いていたら申し訳ございません。
 
 さて、この書は一貫として「自分で考えなさい」ということを伝えてくる。耳が痛い。
 「社会」とか「自由」、「死をどう考えるか」(これが「14歳から」「17歳から」の2章立てのうち、前者に含まれる。僕の周りに死について考えていた14歳はいるようには見えなかったが)等、根源的な概念を取り扱う如何にも哲学らしきラインナップである。
 
 「恋愛と性」。14歳の章に位置づけられているのは、性の芽生えが大体この辺りの年齢だろう、ということではないと思う。
 性を意識するのは小学校中~高学年くらいが多数だろう。
 僕が「自慰」を知ったのも、確か3、4年生の頃。しかも芽生えは恥ずかしながら、まだ家族3人一緒に寝ていた夜だったと記憶している。
 意図的に親に隠れて自慰行為に更けるようになったのが、小5くらい。
 実家のパソコンを友達に貸し、検索欄の履歴を見られて大恥をかいたのが、確か中1のころ。
 女性も程度の差はあれ、自覚が芽生えるのはこのくらいなのでは。
 
 性欲との出会い、その全てが偶然とはいえ、それが14歳というのは、僕らの世代からしたらきっと遅い。この書は初版が2003年、僕が14歳になったのは計算が間違っていなければ2005年。ほぼ同世代に向けた一冊だ。
 
 ではなぜ14歳からなのだろう。僕の解釈は、「恋愛と性欲がリンクし始めるのが、その年頃だから」である。有り体に言えば、「好きな人とセックスしたい」と思い始める年頃といったところか。僕自身、学生時代はそれはそれは純な考えの持ち主(自分で言っていて恥ずかしい)だったので、はっきりと「好きな人とのセックス」を想像し始めたのは、20歳くらいじゃないだろうか。自慰を覚えるのは早かったが、恋愛にセックスを持ち込むのは遅かった。
 
 この「恋愛と性」をわざわざ取り上げたワケ。それは著者曰く、
「食文化における料理にあたるものが、性文化における恋愛である」(池田,2003)
というこの考えに、今まで思い至らなかったからだ。
 そしてその章の最後にはこう書かれている。
 
「自分を愛せる人でなければ、他人を愛することはできないのだったね。恋愛も同じだ。いや、動物としてのセックスがあるぶんだけ、恋愛こそが試されることだ。」(池田,2003,110p)
 
 好きな人が性欲の対象になる、そんなまだ生まれて十数年しかたたない男女に、この言葉が突き付けられたら、彼ら彼女らは一体それをどう捉えるのだろう。
 20代後半になったって、「セックスしたいから彼氏彼女をつくる」という人も少なからずいる。そんな人の衝動を僕は否定できない。性欲と切り離した恋愛を「高尚なもの」だとも思わない。しかし「セックスしたいから付き合おう」というのは、それに同意する人は少ないように思える。
 
 性衝動が先か、恋愛感情が先か。
 そもそも恋愛感情とは何に起因するのか。
 
 性欲と見た目、恋愛感情と中身は、それぞれ強く結びついている。個人的にこの考えは割合的を得ている。だから、アイドルのような見た目の選ぶ男性は体目的なのだ、と言われがちなのであろう。性欲と、五感それぞれの神経に占める割合は、相関している気がする。
 
 しかし「見た目」というものは、それを感じている当人の主観でしかない(「あの子、芸能人の誰それに似てるよね」と周りに言って、いつも同意を得ることが少ない僕にとって、この「見た目≠客観」論は自明である。)
中身も然り。「やさしそうなあの子」は、友人にとっての悪魔であることは、ままある。
 
 結局、どんな相手を選ぼうが、それは絶対評価である。「面食い」が高じて選ばれた、と言われたって、相対評価ではなく主観による絶対評価だ。「顔だけで選んだからすぐ別れた、内面も気にすべきだ」と言われたからといって、当人にとって彼氏彼女を選んだその時点では、その選択を貶められる謂れは何もない。
 そして恋愛感情が主観によるものである限り、その要因が見た目だろうが中身だろうが、些末なことである。「見た目ありき」だろうが「中身ありき」だろうが、恋愛は当人間で行われているものだ。合意さえあればその恋愛は実を結び、それが無ければ誰かが泣く、それ以上のものではない。
 
 性という多数の生物に共通するものの中で、人間が独自に発展させた「恋愛」。つまり、恋愛はヒト文化のひとつであるとのことだ。
 「江戸の文化」「中国の文化」といった文脈でしかほぼ使わないので、「恋愛=文化」という思惟は、かなり新鮮であった。
 そして主観が統べる恋愛だからこそ、その概念は永遠に宙ぶらりんのままである。